時の馬、翔る夜
2017年10月作
この世に生を受けて二十余年。
まだまだ若輩者、だけどまずまず生きた者として最近思うこと。
「人生って思ったより長え、、、」
ということ。
もし小説や演劇の世界ならばハイここで大団円!グランドフィナーレ!カーテンコール!といきそうな場面でいつも灯りがパッと消え、気付くと一人で暗い舞台の上にいる。
ハイまたここから台本無しの即興で自分一人で何か始めて下さいね、と見えない力に押され、そこからなんとか大団円までもっていったと思ったらまた灯りが消え、、、の繰り返し。
これからもまだまだそんな場面が沢山あるのだなあ、と生意気にも考えては憂う今日この頃です。
と、
ここで私の好きなことわざをひとつ。
「人間万事塞翁が馬」
にんげんばんじさいおうがうま
又は
じんかんばんじさいおうがうま
と読みます。
大まかな意味は「人生の幸不幸は予測できないものだというたとえ」ですが、面白いのはその基となった逸話です。
以下某サイトより引用。
『中国の北の方に占い上手な老人が住んでいました。 さらに北には胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。 ある時、その老人の馬が北の胡の国の方角に逃げていってしまいました。 この辺の北の地方の馬は良い馬が多く、高く売れるので近所の人々は気の毒がって老人をなぐさめに行きました。 ところが老人は残念がっている様子もなく言いました。
「このことが幸福にならないとも限らないよ。」
そしてしばらく経ったある日、逃げ出した馬が胡の良い馬をたくさんつれて帰ってきました。 そこで近所の人たちがお祝いを言いに行くと、老人は首を振って言いました。
「このことが災いにならないとも限らないよ。」
しばらくすると、老人の息子がその馬から落ちて足の骨を折ってしまいました。 近所の人たちがかわいそうに思ってなぐさめに行くと、老人は平然と言いました。
「このことが幸福にならないとも限らないよ。」
1年が経ったころ胡の異民族たちが城塞に襲撃してきました。 城塞近くの若者はすべて戦いに行きました。 そして、何とか胡人から守ることができましたが、その多くはその戦争で死んでしまいました。 しかし、老人の息子は足を負傷していたので、戦いに行かずに済み、無事でした。
「城塞に住む老人の馬がもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、また禍(わざわい)から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福というのは予測できないものである。」 という事です。』
なるほど。
良いことが続いているように感じていてもどこかで躓くかもしれない。
反対に、もう再起不能なのではないかと言う程の痛手が大きな幸福の前兆だったりするのかもしれない。
いずれにせよ良い時でも決して驕らず、逆に悪い時でも過度に悲観的になることなく上の話に出てくる老人のように起こりうる全てを凛とした心で受け容れ生きていけたらなと思うのであります。
なかなかどうして、それがまだまだむつかしいのですが。
嬉しくても悲しくても時は過ぎて行きます。
その全てが過ぎた時、今では想像もつかないものが見えているのだろうか。
そして自分が経験し見て聞いて触れたもの達をちゃんと次の世代に語れるような人間になれているだろうか。
そんな事を思いながら、おこがましくも自分が老人になり子供に語りかけるような気持ちでこの曲を書きました。
そして今この文章を書いている時期は晩秋ですが、ちょうど秋の四辺形、ペガスス座が観測できる時期です。
これは単なる偶然ですが、なかなか粋な偶然だなあと思います。
ペガサスと塞翁が馬
馬以外全く関連性ないですけどね。
以下歌詞です。
『時の馬、翔る夜』
地下深く 空高く
命の音が此処まで響いてくるよ
僕が生まれる ずっと前から
絶え間なく鳴っていたんだね
ペガスス座を見に行こう
あの灯台の向こうまで
美しい瞬間は過ぎても
泣かないで 生きる限り
時は君を離さない
千夜分の涙より
遥か深く広がる海を
翔る時の馬
光が生まれた日から今日までを
連れて 新しい朝を運んでくるよ
ほらごらん、あれが
君の未だ見ぬ
よろこび、かなしみ
抱いた 夜明けだ
項垂れる望遠鏡
古い夢から醒めまた顔を上げる
昨日の星を探す
君を寝惚けた空から
引きはがす手を今は憎んでも
構わないさ いつか分かるよ
遠い遠い先でも良い
魂の行く末より
君が笑う一秒を
見つめているよ
二度と来ない一秒を
千夜分の涙より
遥か深く広がる海を
翔る時の馬
光が生まれた日から今日までを
連れて 新しい朝を運んでくるよ
ほらごらん、あれが
君の未だ見ぬ
よろこび、かなしみ
抱いた 夜明けだ