確固たる曖昧さについて
今日はリリイ・シュシュの「エーテル」を聴いていた。
とても好きな曲。
元々映画「リリイシュシュのすべて」がとても好きなのだけど、この曲は映画が公開された2001年から9年を経た2010年に発表されていて、動画のコメント欄を見てみると年月の経過による変化に対する拒絶的な意見が一定数見受けられた。
「これはリリイじゃない」
「リリイは死んだ」
正直、私もこの曲を初めて聴いた時は
「リリイではないかなあ」
と思った。
それでも聴けば聴く程胸が締め付けられ、叫びたくなるような衝動に駆られ、ノスタルジーに沈むような未だ見ぬ世界に溺れるような感覚から抜け出せなくなり、8分超の長さにも関わらず繰り返し繰り返し聴いてしまう自分がいた。
確かにこれは2001年当時のリリイではない。
だけど同時に2010年当時のSalyuでもない、と私は思う。
どちらでもない、曖昧な存在。
それ故に絞り出される悲哀や慈愛がこの楽曲には充ち満ちていて、そこに私は強く引きつけられるのではないかという解釈を今では持っている。
(あくまでも私の解釈なので悪しからず、というかまあ単純にめちゃめちゃ良い曲なんだけどね)
なぜこんな話を突然するのかというと、私自身音楽をしている時もまたそれ以外の時でも
「自分はとても曖昧な存在である」
という認識を常に持っているからである。
知っている人は知っている通り、私の中には在日コリアン三世としての血が流れている。
それでも向こうの国に対する憧憬や望郷の念を抱く事などないし、「母国」という言葉にも今ひとつしっくりこない。
それはまるで突然目の前に見知らぬ女性が現れ「あなたのもう一人の本当の母親ですよ」とでも言われているように。
昨年初めて向こうに暮らす遠戚と対面し、その出来事にいたく感動したことから「Love letter」という曲は生まれたものの、そこから故郷への思いを抱くかと訊かれればそれはまた違う話なのである。
逆に自分が生まれ育った日本に対しても「我が国!」という風に思える訳でもなく、曖昧なまま今日まで生きてきた。
人との繋がりもそうだ。
我ながらどんな人とも比較的話すことができるけれど、一処に留まると言う事ができない。
例えるならクラスの全員とそれなりに仲は良いけど文化祭を回る時は一人、みたいな。
実際は文化祭の時私は当日ばっくれたバンドメンバーの代りを探すべく校内中を走り回っていたので、あくまでも例えばの話だけれど。
いくつかあるコミュニティの中をいつも曖昧にふらふら漂っている感じであることに違いはない。
そして、それは私の音楽性そのものにも強く反映していると思う。
「ポップスです」と明言出来るものではなく、かといってアンダーグラウンドシーンにすっぽりしっくり浸透するようなものでもない。
やはり双方の隙間をゆらゆら、ふらふらと漂っているようなものなのである。
先日のライブで他出演者の方が全員弾き語り形態だったのに対し、サポートメンバーを連れていたのが私だけだったので
「なんか今日人数多くて浮いてるねえ」
と何の気なしに言った際、メンバーの一人に
「いや、ていうか水瑛が浮いてないライブとか見た事無いよ」
と言われた時はさすがに笑ったけど。
そういう意味で言ったのではないわい。
まあでもつまるところそういう事なのだと思う。
そんなことを明確に考えた事はないにせよ、いつもなんとなく頭の片隅では感じていた。
そんな中、昨日PC上の画像データを整理していた所ミニアルバム[ao.]にしようするべく撮影していただいた写真のデータが出てきた。
photo by Sachiho Takehara/83
83さんの撮られる写真がとても好きだ。
この世の者とそうでない者の間を漂うような、それでいて強い意志を感じる世界。
この世界の中にいる自分は純粋に、素直に好きだと思える。
写真を遡って行くうちに、私は無意識下で自ら曖昧な存在である事を望んでいるのではないかとの考えが浮かんで来た。
何処の誰でもない、曖昧な存在故に絞る出される悲哀や慈愛。
勿論多少なりとも私自身の出自や環境が影響している面もあるとは思うけれど、そういった「確固たる曖昧さ」に強く惹かれているのだと思う。
丁度リリイシュシュの「エーテル」に惹き付けられたように。
勿論曖昧さを好ましく思わない人もいる。
先日お酒の席で20ほど年上の方に
「ラブソングを作りなさい!
何も西野○ナみたいな曲を作れってんじゃないの、
あなたのラブソングを作りなさい。」
と言われた。
はあ、なるほどお、そうですねえ、と相槌を打ちながら、私は頭の中で
「それならもう書いてるんだけどなあ」
と思った。
私の思うラブソングは何も色恋だけではなく、親愛、友愛、自然愛、世界愛、宇宙愛自、、、、などなど。
対象や形は違えど根底に何かへ向けた「愛」を感じることができるものである。
先程も上げた「Love letter」なんかが良い例なのだけど、ラブソングと見せかけて聴いていくとそれだけではないな、という作品が作れていればな、と私は思う。
それでも聴いてくれる方により解釈は様々で、かつて好きだった人を思い出したと言う方も入れば失った家族を思い出した、と言ってくださる方もいる。
(いつもしっかり聴いて下さる皆様本当にありがとう)
それもまた、確固たる曖昧さと言えるのかもなあ。
もっともっと格好いい曲を生んでもっともっと研ぎ澄ませて行けば、遠からず曖昧なだけものではなく本当の意味での唯一無二になれるかな。
その日が少しでも早く訪れるように今日もピアノを弾いて眠ることにします。
それまではまた暫くゆらゆらふらふら、何処に留まる事もなく漂っていよう。
雨の降る空気があんまり心地良かったものだからついついこんなだらだらと書いてしました。
ここまでお付き合いして下さった方、もしいましたらありがとう。
ほいじゃまた。