かなしみは蚊帳の外
2016年11月作
(以下解説長め)
20余年生きていると「身近な人との永遠の別れ」に立ち会う瞬間が何度かあって(そしてその瞬間は今後更に更に増えていくのでしょう)。
私が初めて「人の死」に直面したのは7歳の頃だったのですが、その時の体験はあまりにも強烈なもので後の私の死生観に多大なる影響を与えたと言っても過言ではありません。
「凋む月」の解説でも述べた様に、私は自分と言う存在にずっと異物感を感じていて。
たとえば幼い頃友達数人と一人の子の家に遊びに行く、となった時も、皆がその子の家でもうすっかり馴染んで遊んでいるのを見ると
「私にはこの空間に入る資格は無い」
と感じてしまい、いつまでいつまでも家に入れず玄関口で躊躇っていたものです。
そしてそれは死を悼む場面でも同じでした。
あまりにも突然で痛々しい死を受け母や亡くなった叔父の娘さんがしゃがみ込み咽び泣く姿を生まれて初めて見た私は、
みんなが泣いている
お母さんやあのお姉さんは本当にずっとおじさんと一緒だったんだ
それに比べて私はあの死んだおじさんと本当に僅かな時間しか共有していないんだ
そんな私がかなしむことは白々しいことなんだ
私はここにいるべきではないのに
そんなことをぐるぐる、ぐるぐると7歳ながらにずっと思っていました。
それは、まるで映画の中の死を見つめているような感覚でした。
その後何度か訪れた死を悼む場面に於いても、いつも私はその悲しみの「蚊帳の外」にいるような感覚が拭えずにいました。
でも
だけど
たとえ私がその人と共有した時間が僅かでも、
その人の人生に於いて私は脇の脇役だったとしても、
それでもその僅かな時間こそが私にとってかけがえの無いものだったことに変わりは無いのです。
むしろ、僅かな時間だからこそ大切に大切にしまってあるもの。
死を悼むことを躊躇ってはいけないんだ
白々しいと誰に思われようが気が済むまで悲しみ、最後の瞬間までありがとう、ありがとうと伝えるべきなんだ
それができなくて後悔したことが本当に沢山あるんだ
でも今からでも遅くはないなら私はこれからもずっと想い続けよう
そしてこれからまた誰かとの別れに向き合うべき時が来たなら、その時は資格が無いだとか白々しいなんて考えないで目一杯かなしむんだ
突然文章が破綻しましたが。
今までに直面した死、そしてこれから訪れる避けられないであろう死について考えた時にこの唄が浮かびました。
この文を打っている途中、恥ずかしながら涙が出てきて中々進みませんでした。
ていうか最近私自分のこと赤裸々に書きすぎな気がする!
あんまり得意じゃないのに!
ちょっと自粛しますね!
長くなりましたが最後に一言。
「かなしい」は「愛しい」とも書くのです。
『かなしみは蚊帳の外』
別れから一番遠い場所で響く
楽しげな 子供の声は
別れを告げる銃声と重なり
あなたへ捧ぐ唄のよう
咽び泣く人の波に揉まれ僕は
成す術も無く後ろへ
流され握りしめ過ぎた
花は萎れ
もうとても飾れない
ほろり崩れそうな白い
頬に触れる資格など無いと
言い聞かせ呑み込んだ
最後の言葉
僕が泣かずとも
あなたは無数の愛の中眠る
人知れず背を向けた僕の
かなしみは蚊帳の外
そんなに清廉な目で僕を見ないでよ、って
ずっとそう思っていたのに
今はどんな冗談を言っても
もう二度と僕を見やしないね
本当は
綺麗に飾られた花を払ってでも
もう一度あなたの顔を見て
僕は伝えるべきだった
もう聞こえなくても
とても愛していたよと
僕が泣かずとも
あなたは無数の愛の中眠る
人知れず背を向けた僕の
かなしみは蚊帳の外
僕が泣かずとも
あなたは無数の愛の中眠る
人知れず背を向けた僕の
かなしみは胸の奥
生きる
生きる
生きる